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レクチャー

大学から部室までの道のり。18:30
いきなり雨がぁぁぁぁ。
少し待っていたら止むかなと思ったけど、待ち切れず自転車をこぐさかもー。
そして、目的地に着くころには・・・ 
もうびしょびしょですよ。はぁ。いや、びしょびしょどころではないですな。びじょびじょですょ。
服のままお風呂に入ってしまった勢いでしたよ。苦笑
久々にあんなにぬれましたね。水も滴る良い女とはこのことなのか?笑

雷もすごかったですね。頭に落ちなくてよかったぁ神様、感謝
もうすぐ、梅雨明けですな。


話は変わって 今日は、レクチャーを学びました。
以前、人生の目的はという内容でアップしたと思います。
人は何のために生まれてきたのか?
それは・・・幸福になるためではないだろうか?
では、いかにしたら幸福を得られるのかというと、自己の欲望が充足した時に幸福を感ずるというわけです。(前回のまとめ)

しかし、我々は、欲望と聞くとややもするとその本意を取り違えがちであります。というのは、その欲望が概して善よりは悪のほうに傾きやすい生活環境の中に生きているからなのです。

つまり、欲望には義なる欲望と不義なる欲望があるというのです。
しかし、不義なる欲望は、決して人間の本心からわき出づるものではありません。人間の本心は、不義なる欲望が自分自身を不幸に陥れるものであるということをよく知っているので、悪に向かおうとする欲望を退け、善を指向する欲望に従って、本心の喜ぶ幸福を得ようと必死の努力を傾けているのであります。不義なる欲望を満たすたびごとに、人間は良心の呵責を受け、苦悶するようになるのであります。

私たちの心を見てみると、善の目的を成就しようとする本心の指向性と、悪の目的を成就しようとする邪心の指向性とがあります。同一の個体の中にそれぞれ相反する目的を指向し、互いに闘争しているのであります。このような矛盾性を内包した私たちの心は破滅状態に陥っているというわけです。この破滅状態をキリスト教では堕落といいます。

しかし、存在するものはいかなるものであっても矛盾性を抱えたまま生成することはできず、この矛盾性は後天的に生じたものであると考えられます。個人が集まり家庭→社会→国家→世界が形成されていきますが、矛盾性を抱えた個人が集まっているので、本心では、理想家庭、理想社会、平和を求めながらも、現実は家庭崩壊、社会問題、紛争、戦争が絶えないというわけです。誰もが幸せを願いながらも、そうなれない中で葛藤しているのではないでしょうか?
しかし、突き詰めていけば、個人から出発しているので個人の心の矛盾性である根本問題を解決していくことが大切なのであります。次回に続く(原理講論より引用)

最後に、聖書を読んでいて心に残った聖句をあげます。
 求めよ、そうすれば、与えられるだろう。
 捜せ、そうすれば、見いだすであろう。
 門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるだろう。
 すべて求むる者は得、捜すものは見いだし、門をたたく者はあけてもらえるからである。
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